徳法寺は、山号を飛雲山と称し、従三位藤原静康が名付けたと言われています。昔は天台宗のお寺で、垂井喪山の南付近にありました。この地は、国府・国分寺・国分尼寺(現在の垂井町平尾付近)に近く、美濃国文化の中心であり、仏教の盛んな所であったと思われます。
その後、中世に入り、浄土真宗の開祖親鸞が、この地で教えを弘め、念仏の種子を蒔いていったところ、蓮如が長禄元年(1457年)に、本願寺八世を継ぐと精力的布教活動を行ったため、浄土真宗は拡大し広く民衆の支持を集めました。
寛正2年(1461年)に蓮如は、親鸞聖人の200回忌を勤修し、布教手段として「御文」を初めて書いていたこの年の8月に、徳法寺開基善妙は、上洛し、蓮如に面謁しその教えに随喜し、たちどころに帰依した。その折、方便法身尊像((以下絵像本尊という)(左図参照))を賜わり、次のように裏書された。
裏書(下図参照)とは真宗では、本山から下附される本尊や、歴代宗祖の絵像の裏に、像の名称 下附年月日 願主の法名 宗主の法緯およびその花押(又は印章)を記入したものを謂い、事物の確実な証明となります。
長禄・寛正期の頃、即ち蓮如が本願寺を継職して間もない頃、「帰命尽十方無碍光如来」の名号を本尊とし、多くの書を門徒に与えて教えを弘めたため、世間から無碍光宗・無碍光如来と呼称された。比叡山では本願寺の門流を無碍光流の邪義と難じ、これを却けるという名目の下に寛正6年に大谷を破却した。いわゆる「寛正の法難」である。従って寛正の法難以前は、絵像本尊の下附はなく、絵像本尊が下附されるようになったのは寛正の法難以後というのが定説であった。しかしながら当院所蔵の絵像本尊の発見より、方便法身尊号と並行して絵像本尊を下付していたことが判明した貴重な裏書である。因みに寛正の法難以前の絵像本尊下附は、現在のところ全真宗寺院中三幅しかなく、大谷派にあっては当院のみ所蔵している。
次に当院には蓮如筆の「南無阿弥陀仏」の六字名号と、「南旡不可思議光如来」の九字名号があります。名号の下附年月日については不明である。
蓮如と開基善如との関わりは、寛正2年上洛の時以外ない。してみると、この時に名号を下附されたものであろう。比叡山側より旡碍光流と非難されたので「帰命尽十方旡碍光如来」の十字名号よりも、旡碍光の3字のない「南旡不可思議光如来」の九字名号を、絵像本尊と共に下附されたものであろうか。六字名号は、一筆書きで、蓮如は一日に数百枚書き、その礼金で大阪で御坊を建立したという。